昭和47年7月1日 月例祭における教話


 ・・・に来る所と。本当に信心の、まあけいこをさせて頂く。何でもけいこをさせて頂いて、上達をなださせてもらいますと、上達してまいりますと、面白うなる、楽しゅうなる。いよいよ、その、あるいきに達しますと、いわゆるその名人と言われるようになりますと、いよいよそれは、自分の命と同じような事になってまいります。これは私の命だと。もう、あれは〔かくのい?〕というお酒屋さんがありますね。綾部さんのところの、〔特安?〕のお酒屋。あちらのお爺さんなんかは、若い時から弓道をなさる。もうお年なのですけれども、それこそどういう事があっても、毎朝やはり弓矢を持ってその、外へ出られてくる。いわゆる、稽古場があるんですよね。

 そこで、そのけいこを。これこそ毎日、降っても照っても、これだけはやはりなさらなければ、体が、もう調子が悪くなるくらいにあると。まあ、言うならばかくのいさんの、命です。これは、弓やら矢やら、そういうような事ですらがそうなのですから、ね、信心にも〔       〕であります。ところが、その信心が、信心しとりますとおかげを頂きますもんですからね、だから、おかげの方が主体のようになって来るんです。これは、もう本当にそうです。まあ私、神様任せという事は、ああして親先生任せだと。まあ、一生懸命おすがりして、お任せしとれば、もうただただ、もう恐れ入ってしまうというように、確かにおかげを頂くんですよ。

 それはもう、本当にそうです。ね。本気でお参りをする、本気で御教えを頂く、本気で親先生任せになる。そしてすがるという生き方にさえなれば、もうこれはいらんと言うても、おかげの方がです、もうそれも何とも言えんタイミングの中にですね、もう本当に。何時でしたかね、綾部さんが言って、お届けしておられた。もう、神様のお働きには、もう恐れ入ってしまいますと言うの。ね、それが、そういう働きをこれに感じながら日々過ごさせて頂けれると言うのですから。ね。

 けれども、その〔   〕もするとその、お金の方がね、ついてくるもんですから、今度はそのおかげ、今度は反対の事になって来たりするとですね、信心がこう、いいかげんなもんという、といったような事にもなりかねないところが、信心にはあるようです。ね。ですから、どうでも私共がね、やはり昨日、大祓式。夜中に私が申しました事でしたけれど。ね。それこそ、しっとりとした身につけて行きたい。しかもそれが、楽しくて有り難い。その有り難さが、ね、信心をしとれば一年一年有り難うなって来ると仰せられるように、もう文字通り一年、一年有り難うなって行く事が自分の心に感じられる。それが有り難いのです。

 ね。今日ある方のお届けをさせて頂いた。そしたら、その、小さい体に大きな帯をこう締めておられる。あの、〔まるおいと言うですかね、女の人達?????〕、それをしっかりこう、こう、きれいに結んである。ところが、体が線香のように痩せてこまいもんですから、もう〔        〕の帯をしておるものだから、帯の為にヨロヨロしござるというような感じです。ね。しっかり信心の帯をせよと仰る、しっかり信心の帯をしたつもりだけれども、体の方が言う事聞かん。やはり何でも釣り合いというのがありますよね。

 と言うて、せっかくそういう大きな立派な信心の帯をしたのでございますから、その帯に相応しい私になれば良い訳なんですよ。ははあ、なるほど信心の帯、信心の帯と言うけれども、ね、信心の帯だけしっかり、例えて言うと、なら今日のここにお参りの方はほとんど朝の御祈念に参った方でしょう。どの変にまた昼の、今日から始ったところの信行、いわゆる夏期信行が今日から始ってある。。あの一時を境に若先生方を、若い先生方を中心にして、それこそ、もう火の出るような勢いで神様に御祈念を捧げる。いわゆる、御祈念の修行というような感じ。ね。

 もう、普通はあんなに一生懸命には大祓いは上げん。そしたらたい、今日はもう、ね、皆さん方も、もうとにかく腹の底から汗ぶるぶるになって、大祓いを奏上させて頂きながら、30分間あまりの祈念の修行をなさる。そしてまた、今日はお参りして来にゃならん。皆さんと言えば、一番そうですね、今日は遠く、なら秋永先生あたりなんかそうです。朝の御祈念に参ってきて、昼の信行修行にも参ってきて。そして、また今晩のお月次祭。もうまるきり、お参りに掛かっておらねばならないというようなこと。

 ですからね、それがもし重荷になり、もしそれが、ね、ちょっと信心っちゃきつかのっち言うたってはね、やはり帯の方が、信心の帯はしっかり三回も巻いたりしたつもりだけれども、それでは言うならばヨロヨロ。ね。ですから、その内容というものが、今日私が申しますようにです。ね、しっとりとした信心。その事にただ打ち込んで只管行けれるという事が有り難い。だけではない、自分の心の中に、ね、このような有り難い心が育って行くだけではない、お礼参りさせてもらわなければおられないというほどしにです、ね、日々の様々な事柄の中に、神様の働きをここに感じさせてもらう。

 もう、ただ恐れ入ってしまいますというおかげを頂きながら、そういう信心を続けさせて頂いたら、三回参りがまた四回、いや、もうお参りに掛かっておってもおかげが頂けて来るとするならです、ただ有り難いという事でいいんじゃないでしょうかね、信心ってのは。信心はだから不思議なんです。ね、とても、とても五と五足しゃあ十になるというような法則をも〔ちょういつ?〕したものです。確かに五と五しか足していないけれども、それが二十にも三十にもなって行くというところに、ただただ勿体無い、有り難いという事になって来る。

 それにはね、やはり打ち込まなければいけない。只今申します、ね。そんなら信心の帯を、そして自分には無理が行くから、なら、まちっと細めようと言うて、信心の帯を緩めておりますと、いわゆる今日の一日の登板に書いてありますね。修行後に頂いております御理解じゃないけれども、後戻りをする、信心が。ね、後戻りをしてはならん。ね、だから少しはきつかと。三回なら三回お参りをする事は少しはきついけれども、そのきついところをです、ね、ならこちらが、まちっと本当の大きな信心を、豊かな信心を、それこそその事が有り難いと感じさせてもらえれるほどしの、しっとしとした信心を身につけさせて頂こうけいこだと思うて、いわゆるけいこに通うて来るのでなからなければいけない。

 今日は田主丸からと言うて、若い綺麗なお嬢さんがお参りして来た。しかし、人間もそんなんで、いよいよ填まると、もう本当にどんな事でも出来もすりゃ、言葉に出して言えもするですね。もう本当に赤裸々に、まあ、思いきってそういうお届けが出けたねというように、まあお届けをしておりました。ちょうど、4時の御祈念になりましたから、しばらくお話をさせて頂いて、今から4時の御祈念ですからね、一緒に御祈念を致しましょうと。そしたらやっぱり、私が御祈念を済んでも、やはりあそこで一生懸命、御祈念をしておりました。

 その人がですね、名前が柳和子さんと言うんです。ほれでね、金光様の御信心ちゅうのは、アンタのその願いというモノを聞き届けて頂いて、本当におかげが成就するようにお願いをするけれども、貴女は、その御自分の名前のように、ね、柳のような、言うなら風任せになれれる素直さ。和子さんと言うのは、かずは和と書いちゃる。だから、自分の心がいつも平生である。ね、それを目指させて頂くという事が金光様の御信心。しかも、そういう和になる心、または素直になる心の、なれれる道を教えて頂くのが金光様の御信心。

 初め、先生お願いし、拝んでもらってから本当におかげ頂くでしょうかっち、いうようなお願いでした。実は私は、木山の何とかという大きなお寺さんがある。そこに母と毎日月の五日にはもう何年間お参りをさせて頂いておる。だからもう、あそこじゃおかげ頂かんけん、こん何処か他ん所ばいっちょ探そうと思うて探し出したのが、まあ合楽の教会だったという事なんです。ね。

 それは、ただただ拝んでもらうというだけ、またはそして、色んな事をお伺いをしたりするだけの信心から、いわゆる柳の心にならせてもらい、和賀心にならせてもらうという事をです、けいこをして行くという事。その願いという事は先生に任せてから、一つまあ、時々通うて来なさいと言うて、まあお話をしたこと。ね、昨夜の月末の御祈念、そして一つ昨日、御礼、御礼の御祈念がございましう。で、皆さん集まって、まあ一時間あまりを信話の、信話会を開き、ここで開きます。

 輪を、輪をかいて。私は昨日、ちょっと頂きすぎてから御無礼しておりました。けれども、今朝から久保山さんがお参りになってからです。もう親先生、昨日はおかげ頂きました、本当おかげ頂きましたち。それは、おかげ。もうとにかく親先生がおらん方が誰でんおかげ頂くですねち。そういう訳ではございませんばってん、とにかく、やはりおかげ頂いたと言うて、んー色々お話をしておられます中に、ちょうど昨日の御祈念は光昭先生でございました。おかげ頂くと、もう光昭でん何でん、やっぱ光昭先生ち言うごつなってくる。ね。

 私は思いますよ、ね、本当にもう、その人の話を聞いて助かるというようなね、心が助かったとか、ね、あの人のお取次ぎを頂いてです、本当におかげ頂いたと言うならば、本当にそれは〔   〕人であっても、先生をつけなければおられない。だから私はこの、修行生の先生方にもそれを言うんです。ね。例えばあんたのお取次ぎを頂いて人が助かってごらんて。ね、また貴方の話を聞いて本当に人がおかげ頂いたと言うようになってごらんて。それはもう、とても、とても丁重にするようになるよて、私が。ね。

 軽く扱われたと言うて腹が立つような事じゃ出けんよて。と言うて、まあ申します。ね、例えば、なら昨日の光昭の話なんかは、そういう意味でおかげを頂いたから、途端に光昭先生になった訳なんです。私は三橋先生かと思うたら光昭先生。ね、どういう事を話しましたかち申しましたら。ね、先生がいつも親先生が仰るように、信心とは結局有り難うならせて頂くけいこ。なら、僕達もやっぱり有り難くない事はないと。確かに有り難い。けれどもね、親先生が言うておられる有り難いというのはね、とても、とても私共が想像もつかないほどしの有り難いというモノを感じておられるんです。

 言うならば、人が助かるほどしの有り難いなんだ。私共はそれを目指さなければいけないという意味の話だったらしか。ね。信心とはそれを目指す事なんです。ね。僕達の場合は何か自分の都合良うなりゃ、自分の思うようになったら、はあ神様は有り難い、お繰り合わせを頂いて有り難いと言うておるだけの有り難い。自分にちょっと都合の悪い事になれば、もう有り難いという心が失せてしまうような有り難さだけれども。親先生の場合には、ね、それこそ人が悲しむような場合であっても、心の中に有り難いを感じながらお礼を言うておられる、という有り難いなのだから、もう〔うんれい〕の差があるんだと。

 と言うて、それをそのままにしておって良いはずはないから、その、例えば親先生の有り難いを目指させてもらって、僕達も一歩一歩その有り難いという、ならせて頂けるところの信心修行をさせてもらわなければならんという事です。もう、それを聞かせて頂いておりましたら、もう本当に光昭先生が、光昭先生が言われるように、私共〔たいていに?〕有り難い、有り難い言いよるけれども、こんな有り難いじゃない事を感じさせて頂いたと言うて、今日久保山さんがお礼お届けをなさっておられます。もうその通りなんです。ね。

 しかも、その有り難いというものがです、それこそ、ね、しっとりとしたモノでなからなければならない。〔   〕なものではない。これから出ておる有り難いじゃない。心の底からもう有り難いという言葉になって出らないほどしの有り難いである。この有り難いという心はもう、本当に天地の親神様より他に知る人はなかろう、自分と神様だけが味わえるという有り難いという、そういう有り難いを目指さなければならない。ね。それには、信心しておって、どのような事が起きて来ても驚かんで済むほどしの信心修行が日頃出けておかなければならない。

 信心して、変わった事が起こって来たら、有り難いと心得て信心せよと仰せられるようにです。ね、信心して起きてくるその事がです、ね、それは右と願った事が左になっておりましても、神様左になら、こういう事は願ってませんというような事を起こって参りましても、そこにいよいよ神慮の深さを分からせて頂きながら行くという信心。いや、その神慮の深さと言うのは分からん。分からんけれども、その神慮の深さに触れて行こうとする姿勢。そういう信心、〔   〕おろそかに出けないところの信心。そういう信心をです、私は今日しっとりとした信心という風に思います。

 ね。昨日の大払式の時に、ここで昨日は、ひろみ先生が祓いの祓い番主ですかね。もう、昨日のお祓いの、お祭りの一番の花形です。一番責任の重い、いうなら役を承っておりました。ね。外の車から、そしてせいせいモノから、そして色々とこうさせて、祓いを終わらせて頂いてです。ね。こちら側の先生方のお祓いをさせて頂いた時にね、あの、ミサが切れました、一本。そしたらね、それがキリキリキリ・・・とこう、〔        〕ようにこの辺まであるんです。そして、またキリキリキリ・・・と〔          〕舞い降りる。

 もう昔のあの、信者さん方はね。大祭の時にこうお祓いを受けるでしょう。で、あれが千切れるでしょう。もうそれこそ、もう割れた気にあれを拾うたもんですね。有り難いんだという訳なの。ね。その、私はその時に不思議な打ち方だなあと思うたらね、その、祓いの神事と頂いた。ね、祓いの神事という事なんです。ははあ。例えばお祓いという事はね、このような例えば、もう言うならば神様事なのだ。神様がそれに働きを見せて下さるのだ。そして、私はフッと、北京時代にあの、〔こしんどうの、てんこうきょう?〕という宗教団体がございましたが、非常に山にこもって、店なんかをする宗教です。今はどうか・・・。

 その時に、その信心が好きですから、私共の借家におりました人、大工さんでしたが。その宗教を、自分で、あの〔         〕大きなお庭作って、朝晩、水かかって拝むという、その方達の集いがございました。そん中には千里眼的な、大変、徳を受けた人がありましたね。そして、あの、〔ちんこん?〕、いわゆる魂を静めるという、いわゆる神事ですね。そん時の事をしきりに思い出させてもらうんです。こういうね、石が、生き石、丸い生き石です。生きた石と死んだ石は分かるですね、見ただけで。それを、こう二つ用意してある。

 それを、計りでかけますと、まあ分かりやすく言うなら百匁ずつあると致しましょうか、この石が。そして、そういう神事を終わらせて頂いた後に計りますとね、それが百十匁になっとるです。もう私は驚きました。祈るという事はこのように素晴らしい事だろうかと。いや、それは奉によってです、神事がなされた訳なんです。それは、色んな私達から言うと呪いのような、いわゆる神様事が行われた、式が。そすと、方一歩のはひとつも変わらん。やっぱり百匁、二百匁なんですけれどもね。

 しきりにかけてから、ふんどうをどこさにやったっちゃ、このしきりのの竿が上さに上がらん。不思議な事です。ね、ははあ、例えば私がここで祈らせてもらって、今日の大祓いの式を仕えて頂いておるがです。言うならば、百匁の石が十匁になるぐらいな力はあるなあと私、昨日思うた。ね。なるほど、例えばお祓いをして頂きゃ、もうそれで一年中、ね、事故に遭わないかというと、そうではないですけれどもです。けれどもね、遭わねばならんものでも、遭わんで済む。ね、十あらねばならんモノは半分で済む。そういうぐらいなおかげは頂く。ね。

 まあ、一例を言うなら、〔  〕さん一家でもそうです。ね、〔   〕さんは飲酒運転をし、そしてダンプにぶつけたんですからね。もう、それこそ単車はめちゃめちゃ。自分な、ほんな足のところに、靴はガッパリはげましたけれども、小指のところをちょっとすりむいた程度であった。ね。お父さんはこの頃から単車で行きよってから電車にぶつけた。とにかくね、ぶつけるとが違うもん。電車やら、ダンプカーやらじゃん。もう大型ですよ、やっぱり。

 けれども、一月前からね、もうとにかく、もう誰かが、もう死なねばならぬような田植えの夢ばっかりが、ずうっと頂いて行きよった。だからね、神様がお知らせ下さるからには、一生懸命、まあ信心しなさい。おかげ頂かにゃならんと言うて、まあ参りましたがです。もうそれがね、跳ねられちからいたところが、まちょこっと行くと向こうにコンクリーとの壁があった。〔    〕。

 清さんな、こっちで夫婦で田ん中で、田ん中を見げ来ちゃったじゃった。えらい、あそこ人が集まっとる、何事がありよるじゃろうかち言うた時には、こうこうやってからお父さんがおらんげなもん。それが、お父さんっちゃ分からんもんじゃけん、どうかしてあったっじゃろうかち、というぐらい〔        〕だった。ね。それがどうかっち言やあ、もうその、ちょっとこっちであってもいけん、ちょっとこっちであっても、それこそ、もう命に掛かるようなところにですね、それが草がこう生えちから、フワーっとしたような所じゃった。

 昨日、総代さん方がお見舞いに行きましてね、もうちょい言うと、おかげ頂いてから、もう今、腰の方がちょっと、ちょっと上だと何かどうか、とんでも、どうですか。あ?脊髄。ちょっとしただと、足の骨を折るというところだった。ちょうど、その真ん中の、本当あんたはあの、怪我上手ち言うちから先生が仰ったち言うちから。そしてから、とにかくその逆立ちの早いことがね、いわゆる良うなる事が早いことが、もうお医者さんがたまがっとると言うて、昨日、総代さんがた行きましたら、言われたというようにです。まあ、これは〔   〕さんところの、一つの例です。ね。

 なるほど、あの神事にあうという事。神事にあうという事が、そういうその、いわゆるそのくらいなおかげは頂かれるという事。ね、だから、それだけではない、金光様の御信心をただ祓うてもろうたから、もうこれで良し、安心というのではなくてです。ね。いわゆる、高橋さんじゃないですけれども、今日は大祓いという日にです。ね、今日はもう、それこそ一偏だって欠けた事のない高橋さんがです。ね、昨日でギリギリで今度、北九州の方にまたお店が出けます。その、先方での会合が、もうどうしても私がおらなければ出けんという会合で、行かれました。

 それで、お届けをされましたから私が、お繰り合わせをお願いしときましょう。ところが、どうもお繰り合わせが分からんごたった。それで、また一時したら出てきなさった。先生、その行かんで済むごたるお繰り合わせ頂くとですかち言う。いや、そげな事、私はやらせて頂く事をお願いしよるがち言うたら、んなら安心して良いですねというような、まあ事でございました。言うなら、安心して行けた訳です。

 ね、年に一度の大祓いを受けない。ね、そん時、私なぜそういう風に言うたかと言うとですね、あの、〔ふらんそう〕を頂いた。しかも、その〔ふだんそう?〕が矢の形にこうなって、向こうに丸い輪があってその、丸い輪を目指して、この行っておるという所の護身眼でしたから、ははあ、この人は日頃、普段が、ね、しかもこの和の心、和賀心を目指しての焦点、ここを焦点にして、常日頃信心のけいこをしておるのであるから、こういう時に、例えば御無礼になる。いや、例えばそれに大祓いの式に出られなくても、おかげを頂けると思ったから、私はあちらへ行かれる事を、のお繰り合わせを願いました。

 これが、まちっと不信心な人ならば、〔              〕と言うのが、だいたい合楽流儀です。けれどもね、普段の信心が、しかもそれが輪を目指しておる、いつも。しかも、輪を焦点にしておる。どういう問題が起きてきても、それを有り難い、勿体無いという答えの出るところまでは、それを進めて行こうという信心がです、福岡から、福岡から毎日毎日お参りされるだけじゃない、それこそ、自分の家より合楽の教会で御用しとられる時間の方が多いというくらいなおかげを日頃、ね、普段に頂いておるという事だ。普段そうという事は、そういう事だと私は思った。だから、そういうお取次ぎをさせて頂いた。

 そういう普段の信心が大事であるという事。ね、そこからね、しかも、ね、自分達が頂いておる有り難いという心がです、これはもう親先生は特別のモノと言わずに、光昭ではないですけれども、それは、うんれいの差があるけれども、親先生が有り難いと思うておられる有り難い。そういう有り難いを目指して一歩ずつでも近づかせて頂くけいこに、ここには通うて来るというような生き方からなされるならばです。ね、私は本当にしっとりとした有り難い信心が身についてくると思う。

 ね、それこそが、人間の本当の幸せというのは、これだという事をです、分からせて頂けれるところまで。願った事が成就したから有り難いではない。ね、例えばいつで、いつも、まめなのが有り難いのだ。平穏無事の時ほど有り難い、有り難い。その有り難いがお参りもしなければおられない、御用させてもらわなければおられないというほどしのものにです、育って来るような信心。ところが、信心のけいこに通うて来ておるけれども、信心のけいこを本気で〔    〕させて頂きよると、もうおかげの方が伴うて来るのです。

 とても、人間の知恵、力じゃ出けないほどしのです、もう何とも言えん働きというものが、例えば、なら綾部さんが昨日お届けされるような。もう何ともかんとも言えません。あちらも立ちゃ、こちらも立つ。ね、四方八方が丸く治まる。何と有り難い事じゃろうかというような体験を頂かせて頂けれるけいこなんですから、それは日に三偏参っても、よし四編参っても良いのじゃないでしょうかね。

 それが有り難い時に、初めて信心の帯が本当に出けた時と言うのじゃないでしょうか。なるほど、今日はなら、朝昼晩お参りをして来ておる方達が少しは、ね、信心の帯をしっかりせにゃ、歯を食い縛ってでもと、こういうのが、ちっとはきつかと。はあ、ちょいと金光様も大ごつ、三編も参らにゃんけん、というような人はですよ、てんで帯だけはもう、信心の帯をせろと仰るけんもう、〔        〕ばこうした。ところが、体はこまかもんじゃけん、帯の方ががヨロヨロしよる。

 と、いうような事ではならない。んなら、まちっとこまか帯ばしようかじゃ言っちゃいけません。それじゃ、〔      〕なる。せっかく、させて頂いたその信心の帯に相応しい私の、ね、というものを目指さなければならんという事になります。